ゴッド・タウン
数年前、出演作はほとんど網羅してしていた俳優が亡くなった。
フィリップ・シーモア・ホフマン。
亡くなるまでの数年間の出演作品『ザ・マスター』(ありがとうポール・トーマス・アンダーソン!)『誰よりも狙われた男』は即座に劇場へと駆けつけた。(「ハンガー何とか」は極端な偏見のもとに忘却)
彼が登場するだけで観たことを後悔させない俳優はいまだにいないのではないか。
『ミッション・インポッシブル3』でフィリップがトム・クルーズの敵役と知ったときの高揚感よ。
劇中フィリップがトムを蹴り倒すシーンが特出して素晴らしい。
彼は『カポーティ』のように声質で演技していたんだと思う。
どの作品も声の出し具合、響かせ方などに非常にセンシティブなアプローチを感じた。
声色を変えているだけではないことは、「ポーリー・マイ・ラブ」を観ると明白だ。
最近気になるトム・ハーディもしかりだが割愛。
遺作と呼ばれる「ゴッド・タウン」を観そびれていた。
(「何とかゲーム」は緒方拳のぬらりひょんと同様に遺作として容認できん。仮にもあの傑作『復讐するは我にあり』の主演俳優だぞ)
観終わって(途中からだが)これからも新作を観続けたかったと強く思った。
亡くなったことが改めて残念でならない。今作ではそれほど素晴らい演技だった。
しょぼくれた場末のバーが似合うどんづまりのフィリップ。
一生懸命走るが大転倒するフィリップ。それがまたよく似合う。
転ぶ演技があれほど上手な俳優を知らない。
自分勝手なセックス演技が上手な(似合う)俳優はいまのところ思い出せない。
彼が住む町の悪口を書いた記者のリンチを止めるときの声。痺れた。
原題でもある「Good's Pocket」という町が主人公でもある。
敬愛してやまないブコウスキーが居座りそうなバーがあり、彼が愛するアバズレと出会いそうな街並みがあった。
そんな完璧な町から出られない宿命の住人たちを演じる俳優全員が素晴らしかった。って映画は稀有だと思う。
フリップの遺作にして傑作。
- 作者: チャールズブコウスキー,Charles Bukowski,青野聰
- 出版社/メーカー: 新潮社
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基礎の充実の上に2049
82年公開版を中学生のころビデオで観たときの衝撃はいまでもわすれられない。
ファイナルカットを劇場で観られたあの日はずっとブレードランナーのファンで良かったとあらためて思ったものだ。
「ブレードランナー2049」を公開初日にあえて2Dで鑑賞。
物語中盤まであまりの没頭に途中でふと我に返り自分がいったいいまどこの劇場で観ているのかわからなくなった。
映画館の席に座っていてそんな経験ははじめてだった。
そこまでだった。
そこから謎が明らかになればなるほど冷静に客観的にスクリーンで動く映像を眺めるだけになった。
ライアン・ゴズリング演じるKの個人的な哀しみは伝わった。
けれど物語の主軸である登場するすべてのレプリカントの哀しみは一切伝わらない。
ラヴが涙をながしたからなんだっていうんだ。
そしてレイチェルの登場はさらに「ブレードランナー」世界から遠ざけた。
デッカードの前に現れたのは有機体で造られた人造人間ではなくCGで描かれたイラストで物語に抑揚をつけるための産物で往年のファンをよろこばせるためだけの大人たちの遊戯に見える。
そもそもデッカードに心などなく人など愛さない人物だったからこそ人間ではないレイチェルを愛してしまった驚きがあった。彼がタイレル社で初めて彼女の出会ったとき胸ズッキューンなはずないだろ。
そうならデッカードの成長物語でさえ崩れていく。
ジョイをふくめたガジェットすべての説明も長いしレプリカントという人工物に命が宿るギミックには正直のれない。
人間が人間を創造する行為自体が物語の根幹だったのに妊娠するかね。
82年版を模倣した世界観も「綺麗な映像で汚い街」でしかない。
はたしてラブドールとして生まれたプリスは妊娠しなかったのかはたまた避妊していたのか。
ナカトミプラザと都庁舎
イッピカイエー。
都会のビルが盛大に爆発する映画が好きだった。
ボディカウントが追いつかないほど主人公が愛用拳銃ベレッタF92でガンガン人を撃ちまくる映画ばかり観ていた。
その最高峰。
プライベートなのに拳銃所持したまま飛行機でNYからLAへ移動してきた刑事。
偶然テロ現場(本当は強盗だったが)居合わせた刑事。
裸足でバンバン敵を撃ち殺すのに飽き足らずエレベーターシャフトにC4プラスティック爆弾を括りつけた椅子を放り投げてよろこぶ刑事。
ビルの屋上が大爆発して人があんなにいっぱい死んだ(ほぼ彼が殺した)のに奥さんとリムジンの後部座席でキスしながら去っていく刑事。
彼の名前はジョン・マクレーン。最高の映画だ。
『ダイ・ハード』。時は1989年。劇場で興奮したものだ。
あれから30年近くが経つ。
正月三が日にテレビで「都庁爆破」なるテレビドラマを見てしまった。
都庁がテロに乗っ取られ爆発した。正月からなんて景気がいいのだろう。
それなのにほとんど地上に影響がない。
高層階と地上では時間軸がずれているのだろうか。しかしそんな説明は一切なかった。
主人公の娘がテロリストに人質になってしまう(本当にテロだったというひねりのなさ)。
そこに意地悪家族も人質になっていたため娘がさらなる危険にさらされる。
物語上娘を危険にさらしたいなら後出しジャンケン(説明もなくそこにいた意地悪家族)ではない別の方法があったはずだ。
いや。考え直そう。人間は保身のためなら何だって・・・とか。そういう説教がしたかったのだろう。大人だね。
そもそもアメリカ諜報機関CIAのエージェントとアメリカに恨みを持ったテロリストが日本人という体たらく。
いや。うがった見方だ。東京五輪も近いし日本人を印象づけたかったのかもしれない。日本人ファーストというべきか。
それにそのCIAとテロリストが兄弟だったという驚愕の事実。これは正直驚いた。違う意味で。
トラウマによって元自衛隊爆弾処理班の主人公の手が震えるのも本人の都合ではなくシチュエーションによりけりというさじ加減。
主人公が最後に解除する毒ガス装置のデザインの幼稚さと今時色付きの配線のどっちらを切ればいいんだ問題を恥ずかしげもなく披露する度胸には感服した。
主人公とコンビを組んだ日系CIAが主人公の胸ポケットのスマホを狙ってベレッタF92(9ミリ弾)を撃って死んだふりさせるがふつう死ぬよ。
What Happens If You Shoot an iPhone 6?
Which Phone is More Bulletproof? Samsung Galaxy vs iPhone
・・・ほら。
屋上に連れていかれた人質の安否も不明瞭のまま放置。
『ダイ・ハード』がやりたかったのかもしれないがあの映画の肝は「本当はテロリストじゃなくてただの強盗だった」というトンチオチだったのに。
まじめだね。
そして最後、装置を処理した主人公と人の死を目撃した娘が(きっと本来阿鼻叫喚地獄絵図であるはずの)地上に降りてきてこういった。
「おなかすいたね」
そうのたまって楽しそうに仲良く帰っていく。放送中ずっと脳みそが痺れつづけていた矢先の出来事。
ジョン・マクレーンと同じ行動なのに主人公とその娘がサイコパスに見えるのは時代なのか。
まんが道
愛蔵版の分厚い本の頁を何度も捲った。
なかでもコンビがプレッシャーに負けて連載を放り出してしまうエピソードはスリリングだった。
やがてすべての出版社に見限られ挫折を味わったあと再起するカタルシス。
コンビで仕事をする人間関係の歪の描写は少々緩いかもしれない。
それでも現代ほどエンターテインメントやメディアが繁栄していなかった当時からすれば余計な情報がないぶんより同じ目的に向かう意志はより強固だったと考えられる。
クリエイティブとはなんたるかをさして理解できない。
しかし『まんが道』はビジネスとなってしまった現実とアイディアを生む苦悩から逃れられないジレンマと戦う漫画家の物語として描き切っていたと思う。
『バクマン。』の漫画は読んでいない。映画はいまさらながらNETFLIXで鑑賞した。
漫画家とその原作者を目指す高校生それぞれの動機。漫画家は叔父さんが漫画家でその姿がかっこよかったから。原作者は絵が描けないし売れたいからとか。
純粋に漫画が好きだから。漫画を描きたい衝動が溢れている。ようにはとても見えない。
物語の肝である連載を落としそうになる理由が病気って。過去に叔父さんが病気で連載を落とすのを伏線としているがそのチョイスはどうだろう。
なぜか高校生活と両立している(居眠り程度で漫画家との二足の草鞋が可能なら両立といえる)。
『バクマン。』は夢見ていた漫画連載がビジネスとなった現実と毎週アイディアを生む苦悩から逃れられないジレンマと戦う漫画家について一切の描写が存在しない。
ただ目立っていたのは漫画連載とライバルとの競争をCG描写で格闘技のように演出した程度だ(しかも長くて後半恥ずかしくなってくるのは少年誌原作だからか)。
ヒロインの存在価値は論外。
唯一本棚の背表紙でエンドクレジットを表現したのは素晴らしい。
ドラマ『まんが道』の主題歌