奇跡の女性・・・

『WONDER WOMAN』の予告篇をなんどもリピート再生。

『MADMAX FURYRORD』の予告篇以来。

本来アメコミ映画に興味ないのに。

 

たしかに『アイアンマン』は構成の巧みさにしびれた。

わざわざストーリー展開を箱書きに起こしたほどに。

ダークナイト』はジョーカーの思想にしか興味がない。

アベンジャーズ』はいろんなキャラクターによるコントにしか見えない。敵もあってないものだし。

要はなにも残らない。

バットマンvスーパーマン』は様々な戦いが矢継ぎ早につづくが抑揚なく平坦だ。メインであるバットマンとスーパーマンの対決でさえもただただ時間が過ぎているという感覚。

目の前でどんなに街が破壊されようとばかでかいモンスターが暴れようとも目からレーザービームが出ようとも感情に訴えて来るものはない。

話題になったワンダーウーマンだってしかり。この時点でこのキャラクター必要なのかという思い。男ふたりで解決しろよ。

 

それなのに『WONDER WOMAN』の予告篇は期待できる。

 

第一次世界大戦下が舞台(らしい)。

近代戦争黎明期に変なコスプレした女が暴れまわる。

ばかみたいだけどとっても素敵。

 

美しい浜辺で墜落した(らしい)飛行機乗りを助ける神話の女神みたいなワンダーウーマン。その飛行機乗りに恋してしまった(らしい)ワンダーウーマン。諜報部員的活動をする(たぶん)ワンダーウーマン。完全な違和感がそこにいる非現実的な格好で兵士たちをばったばったとなぎ倒すワンダーウーマン。このときに腰で敵の銃をまっぷたつにするカットでうなった。

とにかくあたまがわるそうでとってもカッコいいのだ。

途中でアマゾネスみたいな仲間たちが馬に乗って登場して剣をふりまわす。そのあと第一次世界大戦当時の町並みでワンダーウーマンが金色の鞭をふりまわす。

西部戦線とおもわれる塹壕から地上にあがるワンダーウーマンの凛々しい姿(ここは必見)。そこから攻撃されて丸い縦で身を守るワンダーウーマンのやっぱりばかみたいなのにかっこいい姿。

 

ガル・ガドットの美人力もあるだろうがあのコスプレで1910年代に存在するばかみたい感はたまらなく正しいと思う。

 

キューブリックの『突撃!』やスピルバーグの『戦火の馬』にワンダーウーマンが突然登場するようなもんだ。

 

だからといって本編が面白いとはかぎらない。

観に行くけど。

 

 

 

 


Wonder Woman – Comic-Con Trailer - Official Warner Bros. UK

 

 

 

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ロッキー・バルボア・・・

ロッキー・ザ・ファイナル』。

いまはなき銀座シネパトスにて鑑賞した。

試合のハイライトでダウンしたロッキーが拳で体を支えながらのモノローグ。自問自答。

 

劇場で嗚咽を漏らすほど号泣。抑えようと必死。

追い打ちをかけるファイナルベル。ビル・コンティ渾身のサントラ。

ファイナラウンドから観客との握手エンディングまで涙腺がゆるみっぱなし。

DVDレンタルした際もおなじ場面で号泣。

 

自分にはファイナルベルがかかると感極まる習性がある。

ジョギングの際ももっぱらロッキーのサントラをヘビーローテーション

 

ファイナルベルがかかると速度をあげてしまいサビにさしかかると全力疾走。ジョギングなのに途中で力尽きるほどパブロフの犬状態。

 

『ロッキー』とのファーストコンタクトはテレビ。小学生。

羽佐間道夫の吹き替えによりロッキーというキャラクターを身近に感じた。

あきらかに貧乏だし好きな女の子は可愛くないしミッキーにはないがしろにされるし。

 

でもあきらめない男だった。不器用だけどひたむきでがむしゃら。

 

試合に負けたって潔い。本気だから。

 

当時の自分はスタローンに夢中だった。

スタローン熱は『ランボー怒りの脱出』ではじまり『ランボー怒りのアフガン』『コブラ』『オーバー・ザ・トップ』とスタローン主演作品は全部映画館で観た。

 

そしてむろん『ロッキー炎の友情』も。

しかしスタローン熱に侵されながら観た『ロッキー4』は自分のなかのロッキーシリーズとは別のものだ。

 

中学生のころスタローン熱が発端で筋肉マシンガンという重病が併発したがやがてその病も克服した。

シュワルツェネッガーの『コマンドー』『ゴリラ』『プレデター』『レッドブル』も無意識で劇場へむかった。

病は1985年から1988年というごく短い期間だった。

 

それ以前とそれ以後では映画の見方がまったくちはがっている。

ランボー(1982)』と『ランボー最後の戦場(2008)』は物語として直結している。

『ロッキー』『ロッキー2』『ロッキー3』『ロッキー・ザ・ファイナル』も直結している。

 

え?5・・・?

 

クリード』。

ファイナルからさらに老いたロッキー・バルボアが登場。アポロの息子にボクシングを教えるとってもいい話。

しかもロッキーが病に侵されているという悲劇でもある。

それなのにスクリーンで繰り広げられる展開に置いてけぼりになる。

なぜかアドニスの母メリーアンとロッキーが物語上一度も会わないことに違和感。

アドニスの試合。クライマックス。満を持してファイナルベル。

まずい。『ロッキー・ザ・ファイナル』のときよりも観客が多い。

恥ずかしい。嗚咽などもらせない。我慢だ。

 

が。

泣けない。

ファイナルベルだよ。ほら号泣だろ。

冷静になって見ると目の前で戦っているのはロッキーではない。アドニス・クリードだ。

 

残念ながら自分は『ロッキー』を観ているわけでなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロッキー (吹替版)

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ロッキー2 (吹替版)

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ロッキー3 (吹替版)

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四季の死期・・・

『ボラッド』は現実世界で狂気じみたフェイクがアンモラルを手土産にリアルなモラルを破壊するドキュメンタリーだった。

 

フェイクが現実を凌駕するさまを延々とスクリーンに映し出し観る者を圧倒する。

偽善の暴露。

無知識の露呈。

大人のチ●コが人前で露出。

 

昨今ドキュメンタリーには完全なドキュメンタリーなど存在しないといわれている。

演出や編集が介入する時点でフィクションであると認識するようになった。

 

知り合いにテレビのドキュメンタリーを演出する現場ディレクターがいて実際ノンフィクションなど存在しないといいきった。

 

だがボラッドは完全なドキュメンタリーなのだ。

はじめからこれはフィクションですといいながら現実をドキュメントする。

 

『シーズンズ 』は真逆だった。

ネイチャードキュメンタリーと銘打って公開した映画。

自分は大自然のきびしい環境で動物が右往左往する映像が好物なので観ることにした。

四季折々の圧倒的な自然。

自然界を生きる動物たち。

奇跡のカメラワーク。

 

微妙なナレーション・スキルの女優と笑福亭の軽妙な語りは許容範囲。

 

が。

あれれ人間が出てきたぞ。それも原始人。

予備知識なく観はじめたため勝手に現代の動物界のドキュメントだと思いこんでいた。

サブタイトルの「2万年の地球旅行」を見逃していた。

二万年前の地球からはじまって現代の地球になる際に人間が平地の森を伐採し動物たちが山へと追いやられて生活が困難になったんだぞ人間どもゆるさん。

だけどがんばって共存していこうね。という作り手のエゴの押し売り映画だった。

途中でエコロジーな説教がはじまるのも不快だった。

最終的には動物たちも人間をゆるしているんだ的な頭の悪い構成となっていた。

 

中盤を過ぎたころ完全に人間と動物が演出どおり競演している。

それもドキュメンタリーの体をなしたまま。

 

気のせいだろうか。自然の風景がセットに見えてくる。

動物たちがプロダクションに所属している俳優に見えてくる。

 

伝説のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』で奥崎謙三はカメラがまわっているときだけテンションをあげていたという。いわばカメラの前で演じていた。ディレクターの期待に答えるために。

 

矛盾を承知でいう。

完全なドキュメンタリーなど存在しない。

あえてフィクションをドキュメンタリーに放りこむと完全なドキュメンタリーとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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詩にゆくものへの祈り7

籠目の数式

 

 

 

 

今日籠にいれていた鳥が逃げた

 

しばらく部屋をばたついたあと窓の隙間から空へ飛んでいった

 

俺はしばらく鳥が消えた空を見あげていた

 

やがてなぜ空をながめていたのか思い出せなくなった

 

彼女が空にむかって鳥のなまえをよんだ

 

俺はその鳥になまえをつけたおぼえはない

 

籠の扉はあけておいたし窓はずっと開いたままだ

 

彼女は俺を罵倒する

 

あんなにかわいがっていたのに

 

そもそも彼女の鳥ではない

 

ましてや俺の鳥でもない

 

しばらくして鳥がもどってきた

 

なにごともなく籠にもどってきた

 

俺は明日また鳥を空へ放つ

詩にゆくものへの祈り6

偽善の弓

 

 

 

 

ありふれたなんの変哲もない土や泥のにおい

 

朝露にぬれて艶る青葉のかほり

 

君は見やったあとにしばらくしてから顔をゆがめる

 

鼻をつまんで不快そうにくさいとつぶやいた

 

はじめ君のしぐさがなんことについてかわからなかった

 

やがてそのしぐさがなんのことか理解できた

 

だからといってとくに悲しいとは思わない

 

ただし君のことをこれっぽっちも理解できない

 

種類がちがう構造が別のいきものに見えた

 

なぜ君をそういうふうに思えるのは

 

ずっと昔に君のことを諦めていたからだろう

 

日々のなかには踏みしめる土もなく手で触る草木もない

 

理路整然でシステマチックな毎日がある

 

無駄もなく時間も短縮されているからたちどまってよそみをする必要がない

 

無味無臭でシステマチックな毎日がある

 

ところで感ちがいしないでほしい

 

自然推奨テクノロジー蔑視では決してない

 

たとえばとある夫婦が都会をすてて一念発起で沖縄に移住

 

一年後には馴染めずに都会へとんぼがえり

 

その土地にのこされた新築

 

そこには以前自然の木々が生えていた

 

たちどまって一息ついてながめればそこには

 

花壇の花

 

空の雲

 

夜の星

 

とにかく君にはバランスが重要だ

 

諦めずに根気づよく明日君にそう話すことに決めた

 

 

 

 

 

 

詩にゆくものへの祈り5

團子蟲と國家

 

 

 

 

男はダンゴムシをあつめると決めた

 

この世のすべてのダンゴムシをあつめたかった

 

手はじめに家の庭をさがした

 

ていねいにひとつひとつしらみつぶしにあつめた

 

家の風呂釜がいっぱいになるほどあつまった

 

男は夜寝るたびにダンゴムシがうごめくノイズに悩まされた

 

男はとなりの家のダンゴムシをあつめはじめた

 

家主は庭へ入ることを許可したが風呂釜はかさなかった

 

男は家に風呂釜を買い足してダンゴムシをあつめつづけた

 

家に三十もの風呂釜がつまれるころに町の名前がかわった

 

五十もの風呂釜がつまれるころには国の主がかわった

 

八十をかぞえるころには国境がなくなった

 

やがて風呂釜は百をこえた

 

男は風邪をこじらせあっけなく死んだが彼の家にはダンゴムシが生きていた

 

ある日使者がおとずれてダンゴムシを燃やした

 

香ばしいにおい町にただよった

 

翌日からひとびとはダンゴムシをさがした

 

けれどどこにもダンゴムシがみあたらなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩にゆくものへの祈り4

屍の戯言

 

 

 

 

 

彼女はときどき笑顔で踊りだした

 

彼女はうれしくなると踊りたくなるようだ

 

彼女はうれしくなると自分を傷つけたくなるようだ

 

彼女はかなしくなると笑顔になるようだ

 

彼女はたのしいことがあるとさみしくなるようだ

 

彼女はさみしくなるとたのしくなるようだ

 

彼女には彼女を愛する家族がいた

 

彼女にはやさしいボーイフレンドがいた

 

彼女を慕う男性がいて彼女を妬む女友達もいる

 

彼女はなにもほしくなかった

 

だから笑顔で踊るのだといった

 

だから生きたくないといった